色々な学びや気づきがあったと書いたら一行で終わる話

愛子さんが来る前、私は、幼い頃から現在に至るまでの自分の動きを一通り振り返ったものと思っていました。

ところが愛子さんとの会話がきっかけで色々思い出すうちに、上京してから初めてEFTのセッションを受ける迄の間の話が、私の中で一塊になっていて前後を繋げたストーリーになっていなかったことに気づきます。

そんな訳でしばらく繋げる作業をしていたのですが、渦中にある時や過ぎてすぐの頃には気づかなかったことが、あれこれ出てきました。

今だからわかるヒント、合図、謎解きに「そう来るか!ちょっと出来過ぎ!!!」と思い、興奮しながら一人で盛り上がっていました。(日記遅すぎてスミマセン)

この塊の中に、私にとって新たな原動力となるものが存在していたのですが、ありのまま認める×EFTの取り組みを積み重ね、謎解きが出来る今だからわかることだと思うので、愛子さんが訪ねてきたタイミングって本当に最善だったのだなあとしみじみしていたのでした。

「色々なことがわかって、すごく良かった。色々な学びや気づきがあった。」などと書いたら、一行で終わる話なのですが、理由があって、ここからしばらく、少し細かく記していきます。

連載になるので、長文読み続けるの苦痛・・と思った方は、ここで引き返すことをオススメします。

色々の中身が肝心なのに・・

2005年から2006年にかけて次、次と起こる出来事に対し、私は気持ちが全くついていかず、どうやっても自分を立て直せなくなったことがありました。

その時、現状を立て直す為に色々な情報を集めたのですが「ドン底だったけれど、今はこんなにうまくいっている。色々学びや気づきがあった」といった内容ばかり。

「色々の中身」や「ドン底」と「うまくいく」との「間」に何があるのかがを知りたかった私は、肝心な内容が記されていないことに苛立っていました。

ありのまま認める×EFTに辿り着いたクライアントさん達からも、同じような話を伺う機会が多かったこともあり、今回、振り返ったことをきっかけに、改めて細部に触れようと考えました。

連載を読み続けたらわかるであろうこと

普段、私は、ありのまま認める×EFTを通じて「出来事に対する自分の思考、感情、選択、言動といった、自分の動きをありのまま認め満たすことで、自分を活かす取り組み」をしています。

なので、これがどういうことか何となくでもつかめるよう、出来事に対応する際の私の動き(視点・思考・感情・選択・言動など)を書いていきます。

ストーリーを順に読んでいくと「色々の中身」や「ドン底とうまくいくの間にあるもの」を知りたいという私の願いは、出来事を変えながら「自分を活かせない選択」を繰り返した後に人の手を借りて「自分を活かす選択」へと移行し、実現へと繋がっていく流れが見える・・はず。

私は身に付ける必要のあることを1つずつ身につけながら前へと進む為、イメージする「願いの実現の仕方」とは程遠いと感じるかもしれません。

「自分のイメージ通りに願いが実現するのを期待すると、願いが実現していることに気づかない」と言うのを、何となくでもお分かり頂けるのではないかと思います。

これから書く内容は、現在非公開にしているアメブロや、以前のサイトの記事に掲載したことがあるので「読んだことがある!」と思う方がいらっしゃるかもしれませんね。

ありのまま認める×EFTに取り組んでいらっしゃる方であればヒント、合図、謎解きなどを面白く感じるかもしれませんし、これを機に、ご自分の現在に至るまでの道のりを振り返ってみようと思うきっかけになるかもしれません。

お付き合い下さると幸いです。

2005年夏の的を外した我が動き

前回の日記で、私は、全然気乗りしないけれど、同僚のように厳しい修行をしたら自信が持てたりサロンが立ち上がったりするのではないかと考え、心機一転、引っ越しをしたと書きました。

このような

  • 何を選ぶのが正解なのか(どうしたら物事がうまくいくのか)
  • 誰の言うことに従ったらいいのか(物事がうまくいくのか)

は、前回触れた「シンプルで最強な、人間の本質の活かし方」とは正反対の、典型的な「自分を活かせない」選択です。

この選択をすると

  • 「自分はどうしたいのか」に沿って動くことが出来ないので、的を外した対処をする
  • 的を外した対処をすることで、時間・労力・お金・人間関係・自信・居場所・存在価値などロスの連動が生じ、複数の問題が絡み合う
  • 問題が絡み合っても、本当に必要な手を打てないので、物事を先延ばしすることになる

のです。

的を外すってどういうこと?

的を外すとは、具体的にどういうことを指すのか。

私の場合であれば、仮に気乗りがしないとしても、厳しい修行をしようと考えていたのであれば、私がやる必要のあることは「施術に関する修行」だし、サロンを立ち上げるのであれば「サロンを立ち上げに必要な作業」です。

「引っ越し」ではありません。

そもそも、なぜ、私が引っ越しを考えたのかというと、当時

  • 7月にフルタイムの派遣事務職を辞めた
  • アパートの更新を9月に控えていた

という事情があったからなのです。

更新料を払い、今住んでいる場所に居続けるか。

それとも引っ越すか。

この頃、私は少し長く夏休みを取ろうと思い、事務職の仕事の契約を終えることにしていました。

一時的に無職になるので、審査が通らないかもしれない。

だから、引っ越すなら事務職の仕事を辞める前に決めてしまう必要があったのです。

思い込みによる高揚感

新しい環境に変えたら、私は厳しい修行をする流れに入り、集中するはずだ。

そうしたら、自信も得られるだろうし、自然と起業する流れになるはずだ。

などと考えていたら

「引っ越ししたら、うまくいくはずだ。」という高揚感が湧き、そこから引っ越しすることしか考えられなくなりました。

私は無意識のうちに引っ越しを「気乗りしない厳しい修行を頑張る原動力」にしようとしていたのです。

これが、私にとって「自分を活かさない選択によって生じる思い込みが原因のうまくいかない癖」だと気付くのはありのまま認める×EFTに取り組んでからでした。

この癖は、いつもなら手を出しづらい、ちょっと奮発した何かを衝動的に買ったり、得ようとしたりする時に起こります。

買うもの、得るものは何でも良いのですが

「引っ越しをするから(気乗りしない)修行を頑張ろう」
「新しいコート買うから(気乗りしない、先延ばししている)仕事を頑張ろう!」

欲しいものを手に入れる時は、確かに頑張ろうと思うのです。

でも、私の場合、頑張ろうと思い、発奮するのは、新しいものを手に入れる迄なのです。

「頑張ろう」は、欲しいものを得ることへの罪悪感を薄めたり、言い訳になったりすることがあっても、実際に自分が頑張る際の原動力になったことはありませんでした。

その為、

欲しいものを得たのに、頑張らずに物事を先延ばしする自分をよく責めていたものです。

実はこの的を外した動きは、どれだけ他者から口頭で説明を受けても、「私、ちゃんとやっています」と感じる状態です。

その為、本人が「このやり方ではうまくいかない」と気づくことが肝心なのです。

後に、ありのまま認める×EFTを通じて、このやり方ではうまくいかないと気付いて

  • 引っ越しをする・新しいコートを買う
  • 頑張る

はそれぞれ別のことで、一緒くたにする必要がなく

  • 修行が必要だからすると決める
  • 引っ越しが必要だからする
  • 新しいコートを欲う

とシンプルに手を打つようになりましたが、当時はまだこの方法を探り始める以前の段階にいます。

その為、頭の片隅にはいつも気乗りしない厳しい修行があったのですが、引っ越しが優先だから修行は引っ越しが終わって落ち着いたら考えようと先延ばししたのです。

キビシイ修行って何?

今更だけれど、あの頃の私は厳しい修行で何をしようとしていたのだろう。

ぼんやりと鬼軍曹のスパルタなイメージを抱いていたのですが、具体的に何をするかは決めていなかったのです。

私は中学校で、抱いたイメージのような雰囲気の中、表向き、やっているフリをし、びくびくしながらその場を凌いでいて「もっと他のやり方ってないんだろうか」と思っていたことがあります。

つまり、自分には厳しい修行のようなやり方は合わないのです。

実際に私が師事していた先生方は皆、物腰が柔らかく、基礎も技術も教えて下さるけれど、基本的には自分の頭で考えて動くという感じでした。

後にありのまま認める×EFTを通じて私が求めていた「他のやり方」とは、自分の中に原動力を生み出した上で、主体的に思考し行動することだと知るのですが、自分に合っている学び方をしているはずなのに、それでは生ぬるい。

(自分に合わない)鬼軍曹のスパルタなやり方で自分を追い込まないと、うまくなれないと思い込んでいたのです。

このやり方をしていたら、私は遠くないうちに自信や存在価値を失い、精神的に(もしかしたら体にも)支障をきたしたはずです。

でも、仮に、自分に合うやり方を続けたとしても、私は、「うまくなれない、生ぬるい」などと考えて、厳しい修行を求める気持ちがやまなかったと思うのです。

自分の思い込みが、自分を邪魔していることに、この頃の私は気づいていませんし、気づける状態にもありません。

その選択はダメよダメダメの警告サイン

今あの頃を振り返ると、あの時のアレって、自分が活かせない選択をしているから、この選択のまま引っ越しするのはNGという、無意識の自分からの警告サインだったのではないかと思うことがあります。

ネットで引っ越しの物件を見つけて、しばらくしてからのことです。

引っ越しすることへの高揚感で浮かれていた私は、まだ物件がどこにあるのかもわからないまま、自転車でその周辺と思われる地域に出かけました。

もともと住んでいた所から、そんなに離れていないので、気楽な気持ちで出たのが、夜の21時頃。

普段、仕事の後にリラクゼーションのバイトに行き、帰宅が23時近くになることが多かった為、私にとって21時は比較的早い時間という感覚でした。

初めて通る、少し暗い道を走っていた時、後ろからスクーターの音が聞こえてきました。

その瞬間、何故かわからないのだけれど「このスクーターの音、何かおかしい」と感じ、頭の中で、スクーターのひったくりのニュースが駆け巡りました。

籠に入っているカバンの中に、家の鍵がある。

そう思ったことから、速やかにカバンの取っ手をハンドルにひっかけました。

この先、しばらく前に進んだら、道路が二手に分かれます。

左手は空き地が広がっているので、自転車ごと倒されるかもしれない。

右手は、2人が並んで歩くのがやっとの狭さの道路。

ブロック塀に向かって自転車ごと倒されるかもしれない。

全速力でこいでも、スクーターがスピードをあげたら敵わない。

そう判断した時点で、足が動かなくなり、緩やかに停止したのでした。

結果的に私は、すれ違う瞬間に右胸をつかまれたのですが、かばんはひったくられず、スクーターはその場を去っていきました。

嫌な感触が残る中帰宅した後、夜遅くに出かけたことを反省しました。

もちろん、相手が1番悪い。

でも、私は自分の安全を自分で守る必要があります。

土地勘がなく、場所がわからないまま夜にフラフラするは危険だし、23時過ぎに帰っても大丈夫だから、21時なら安全ということはないとその時思ったのです。

これについては様々な意見があると思います。

これは、私に起きたことに対し、私が下した判断として、読んで頂けたら幸いです。

ちなみに、新居は、あの事があった場所とは全然違う所にありました。

無事に引っ越しを終えた私は、「休みが終わったら、(気乗りしない)厳しい修行を頑張ろう。」と思うことによって再び修行を先延ばししながら、新居で2日過ごした後、夏休みのつもりで青森に帰ります。

続く