ありのまま認める方法にたどり着くまでの変化のステップ その1

自分がわからない人のEFTタッピング(ありのまま認める×EFT)では、いわゆるネガティブと呼ばれる感情をありのまま認め、満たすことから掘り下げをスタートするのですが、この「ありのまま」という方法に辿り着くまでの間、私は、細やかな変化のステップを踏んで来ています。

「事故」という、きっかけとなる出来事は違えど、似たような状況で、変化のステップを踏みつつ、この方法を探している方がいらっしゃるのかもしれない。

そう思いながら、今日の記事を書いています。

外側に向いていた意識を自分の内側に向けざるを得なくなった

私は、大型トラックに追突される事故をきっかけに、誰かに自分を認めてもらえたと感じることを求めて外側に向けていた自分の意識を、内側へと向けざるを得なくなりました。

もちろん、当時は知る由もありません。

目に見える傷を負わなかった私は、これくらい大したことがないと思い、事故をものともせず、素早く日常生活に戻るものと考え、周囲の心配をよそに早々と普段の生活に戻ったのですが、数日後、変化が生じます。

運転中、あと5分も運転したら家に着くという時、急に追突される瞬間までの映像が蘇ってきました。

動悸と共に恐怖心が湧き、いったん車を止め、休んでから家に戻ったのですが、これを境に運転が出来なくなりました。

営業職だったので運転ができなければ仕事になりません。

休職し、治療に専念することになったのですが、結果的に復帰しないまま2か月後には退職。

こうやって、外側に向けていた自分の意識を、内側へと向ける機会が、着々と整っていったのです。

複数の居場所とその場しのぎ

思い返せば、小さい時から私には複数の居場所がありました。

例えば、クラスでうまくいかないことがあっても、部活やガールスカウトなどで楽しく過ごすといった具合に、何となくその場をしのげる状態にありました。

大人になってからも変わらず、何かしらの悩みや問題があっても

  • スケジュールをつめこみ忙しくする
  • 嫌なことがあっても別の場所で、息抜きをする
  • 友達に会って話をし、すっきりして解決した気になる
  • ドライブをする
  • 買い物をする
  • 旅に出る
  • 何も決めずに、もんもんと悩み続ける
  • 自虐したり、笑い話にしたりしてしまう

などとといった具合に、必要な手を打たなくとも、何とか通り過ぎて来られたのです。

誰かに自分を認めてもらえたと感じることの多い、小さいうちや若いうちは、その場しのぎで何とかなっても、年齢が上がるにつれて立ち行かなくなることをEFTを通じて気づくのですが、それはまだまだ先の話。

事故後、こういったその場しのぎには、かなり制限がかかりました。

がしゃんという音で映像が蘇るとか、乗り物で信号が黄、赤で先頭で停止すると動悸がしたりといった具合に、事故前は何ともなかったことがあれこれダメになり、自分でも何に反応するのか全然わからなかったので、家にいるのが一番安全だったのでした。

その場しのぎに制限がかかり、家にいることによって、必然的に、自分の意識を内側に向けざるを得なくなっていったのです。

ひたすら寝る

最初のうちは、ご飯とお風呂と病院に行く以外は、ただ寝ていました。

ありがたいことに病院で送迎して下さったおかげで、時間が来たら起きて病院に連れて行ってもらい、帰ってきてすぐ寝るという生活でした。

出てきた症状に慣れなくて、起きていられなかったこともあるのですが、本当によく眠りました。

寝るのは大切ですものね。

でも、ただ寝ていられたのは10日もなかったと記憶しています。

EFTタッピングの掘り下げのステップが、「認めて、満たす」であるのと同じように、存分に「ただ寝た」私は、次の段階へと進みます。

ネガティブな感情や思いを見ないようにする為に寝る

また寝るのですが、今度は「ただ寝る」ではありません。

ネガティブな感情や思いなどを見ないようにする為に寝ていました。

これには理由があるのです。

ただ寝ているうちに、当初、かかとにだけ生じていた熱感が、朝起きる度に少しずつ広がるようになり、自分の体に何が起こっているのかわからず、不安や恐怖心が湧くようになりました。

でも、自分の内側に意識が向けたところで、私は、対応の仕方がわからなかったのです。

なので「恐怖心や不安を見ないようにする為に、ご飯とお風呂と病院以外、寝て過ごす」ようになりました。

「ただ寝て過ごす」から、一歩前進です。

だんだん、寝すぎで昼夜逆転するようになったのですが、実はこれ「朝起きて、熱感の広がりを確認をしなくて済む」という精一杯の対処でした。

完全に的が外れていましたが、何とかしようとしていたのが伺えます。

ネガティブな感情や思いをキャッチするようになる

夜中に目が冴える時。

辛いとか、怖いとか、しんどいとか、どうしたらいいのかわからないとか、この先どうなるんだろうとか、悩んで堂々巡りしてばかりで、頭が疲れると感じていました。

相変わらず、対応の仕方がわからないままでしたし、寝る時間も長かったのですが、私の意識は内側の、いわゆるネガティブな思考や感情、感覚などをキャッチするようになりました。

観念した訳ではないのですが。

これまでは、見ないようにするために寝ていたのですから、結構な進歩だと思います!

すごろくで言ったら、「5進む」みたいな感じでしょうか。(例え古すぎ??)

ネガティブな感情や思いを感じ過ぎて疲れてしまう

でも、「対応の仕方がわからないまま、ネガティブな思考や感情、感覚をキャッチし続ける対処」がずっと続くうちに、これらが溜まり(満ちたとも言える)あれこれ感じ過ぎるようになり、ほとほと疲れてしまいました。

また一歩前進です。

何も感じなければ良いのだ!

どうしたものかと考えた私は、良いことを思いつきます。

「感じ過ぎて疲れるなら、何も感じなければいいんだ!」

なんて素晴らしいアイデア何だろうと思い、早々に心のシャッターを下ろしたのでした。

事故から5か月が過ぎたあたりだったと記憶しています。

最初のうちは、すごく快適でした。

清々しいほどに、何も感じないのです。

もう何で早く感じないようにしなかったのだろうと悔やむ位、安定した感じがありました。

でも、私は、何も感じない状態も、存分に味わったのでしょう。

好きな季節が巡ってきて、いつもなら心躍る風景に、何も感じないことに気づき、これはちょっとまずいと思うようになりました。

また一歩前進です。

ここで私は、再び感じることを選びました。

目の前の問題を何とかしなければいけないと思った

シャッターを開けた時、また感じすぎる状態になり、きついと思いました。

でも、事故直後に比べて「症状のある心と体」に少しだけ慣れた私は、目の前の問題のタイムリミットが迫っていると感じ、何とかする為に、あるかないかわからない情報を探し始めました。

変化のプロセスの結果と疑問という名の願い

事故に遭う前、私は、

とにかく、好きなことや、楽しいことをしよう。

ネガティブを見ないようにしよう。

とにかくポジティブに考えよう、振る舞おう。

という現状を変える為の情報に対し、表面上、うまくいっているように装うことしかできませんでした。

ですが、事故後に自分の内側に意識を向ける、変化のプロセスを辿ったことによって、これらの情報に不自然さを感じるようになり、「もっと自然なやり方ってないのだろうか」と思うようになりました。

これが、私にとって一つの疑問となりました。

自分の抱いた疑問の答えを、自分がずっと探し続けることも。

疑問を抱いたことで探し始めたことも。

疑問とは「その答えを知りたい」であり「願い(~したい)を叶える」であるということも。

この頃の私は、まだ知りません。

ありのまま認めたら良いという情報も知ってはいたけれど

当時、「ありのままのあなたで良いんだよ」という情報も知ってはいました。

でも、どうとも取れる抽象的で漠然とした「ありのまま」は、この頃の私にとって、現実味に欠ける、役に立たないもの でした。

今となっては、10年以上もしつこく追いかけ続け、惚れに惚れた、飽くなき興味の対象である、ありのまま ですが、当時は、巡り合ってはいたものの、何の魅力も感じない、遠い存在 だったのです。

 

でも、もうしばらくすると、今とは全く違う形で、ありのままが登場してきます。

次回に続きます。