
この話は、前回からの続きです。
自分を変えたいと思うなら、欲の扱い方を変える必要があります。
では、自分を変えるきっかけとは何でしょう。
それは、欲の発生です。
他者とのやり取りを通じて発生する欲
1週間のバイトを終えた後の取り組みを通じて得た実りである「それ」は、かねてから、どうしても欲しいと私が思っていたものではありませんでした。
助っ人から「これが終わったら、次はこれをやります!」というメールが来たのを機に、初めて(世の中には)そういうものがあるのかと知り、「じゃあ、やります」となったのです。
つまり、助っ人とのやり取りを通じて、私の中に新しい欲が発生した ということです。
仮に、助っ人を依頼せずに、何もかも一人でやろうとしていたら、私は「それ」自体を知らないので、この欲が発生することはありません。
ひとりでやるには限界がある。
でも、他者とのやり取りを通じて、新しい世界が広がる。
なんて書いたら、いい話としてまとまりそうですが、当時、助っ人からのメールを読んだ私の中で生じた感覚を、正直な言葉で表すなら・・・
面倒くさい・やりたくない・怖い・うまくいかないに違いない。
そう。
欲は、最初から、欲の形をしていた訳ではなかったのです。
ネガティブな思考や感情をそのままに行動を変えることの辛さを知る
私は、面倒・怖い・やりたくない・気乗りしない・不安だなどといった、一般的にネガティブと呼ばれる思いや感情を抱えたまま、助っ人の指示によって選択・行動を変えていたので、その負担たるや半端ありませんでした。
それでもやることにしたのには、二つの理由があったからです。
一つは、助っ人との最初のやり取りが、私の中で強く残っていたこと。
自分の問題は自分で何とかしたいと思いながら、実際の行動が「面倒なことはやりたくない。私の都合によいよう、助っ人がやってほしい」となっていた時に、助っ人から「これはあなたの問題で、私の問題ではない。あなたがやりたくなければ、やらなければいい。あなたのやりたいようにやればいい。」と言われ、今までのやり方ではだめなんだと強く思ったことがありました。
別な記事でも書いた内容ですが、これを機に助っ人から言われたことは、ひとまずやろうと決めていたのです。
そして、もう一つ。
ここに至るまでの間、ネガティブと呼ばれる思いや感情がある状態のまま、選択・行動を変えていたと書きましたが、「自分の思いとは全然異なる結果が出る」という、いわゆる成功体験が続いていたため、少しは免疫がついていたのです。
当時はわかっていなかった気乗りしなかった理由も、今なら説明できます。
「それ」を得られるかどうかは、第三者の判断によって決まるのですが、望まない結果が来た時のことをぼんやり想像した時に、自分を否定されたと感じて、傷つくのが怖いと思っていたのでした。
どんな結果でも結果に過ぎないのですが、長年の、自分を抑える選択の癖によって、
望まない結果=誰かが私を否定している
と感じる状態になっていたために、想像をあたかも現実のように捉えてしまった私は、「自分を否定された」と感じて傷つく位なら、最初からやらなければいいと無意識のうちに思い、新しい対応を回避したかったのです。
ただ、実際に回避をしていたら、おそらく私は、この記事の最後で触れる状態になっていたことでしょう。
無理かも・・と思った時に初めて欲が形になる
さて。
私が「それ」を得られるかどうかは、第三者の判断によって決まります。
そのために書類を作成したり、必要なものを集めたりと、一つ一つ地道に動いていたのですが、とある方に記入をお願いしていた書類が戻ってきて読んだ瞬間「それを得るのは無理だろう」と感じました。
「無理かも・・」となって、初めて私は「得る(という欲)」ことを意識し始めます。
とある方に自分を否定されたと感じて、傷つき、へこみながら、どうしようと思い、助っ人に連絡したのですが、返ってきたメールには、私の視点からは全く見えない、助っ人だからわかる事情が書かれてありました。
どうやら、私が思ったり、感じたりしているようなことでは全然ないらしいのです。
得る結果の分かれ目となった選択と行動
助っ人とやり取りをした後、私の中で2つの選択肢が浮かびました。
- 何とかうまくいくことを願いながら、時間・労力・お金などを費やして、明らかにうまくいかないと思う内容のまま、物事を前に進める
- 書き直しを依頼する(してもらえる保証は全くない)
どっちもイヤだなあ。
後者は絶対にやりたくないから、前者のまま何とかなってほしいけれど、感覚的に無理だと思ったので、しばらく悩んだ後、私は納得を求めるために書き直しを依頼することにしました。
明日世界が終わるのではないかと思うほどにおびえながら出向いたのですが、私の思いとは裏腹に、先方からはあっさりと書き直しの許可が下りたのです。
やり取りを終えた後、安堵するとともに、感謝の気持ちが湧いたのを、今でも鮮明に覚えています。
自分と周囲の尊重と合意
何が起きていたのかというと、当初私は、とある方が全てをわかっているはずという前提(思い込み)で、ただ「書いてください」と書類を出してきていて、具体的な内容を全然伝えていなかったのです。
EFTタッピングの対人トラブルでも本当によくあるあるなのですが、言ったつもりで言っていなかった・やったつもりでやっていないなかったから、「それを得るのは無理だ」という内容になっていたのです。
書き直しを依頼した時、私は「こういう風に書いてほしいのだけれど、できるかどうか」を確認し、先方から許可を取って、新たな内容を記入してもらっていました。
当時は、まだこのようなことは知る由もないのですが、私は、とある方との書き直しを通じて、知らず知らずのうちに
- 自分の尊重
- 自分と周囲の尊重と合意
を実行していたのでした。
このサイトのいくつかの記事に、自分がどうしたいのかわかった上で、自分と周囲を尊重し、行動する時、最善へとつながる と書いています。
この内容に「自分の思い描いた、いい結果を得る」ことを想像なさる方は多いと思います。
確かに、そういうのもない訳ではないのですが、実際は
- 自分の対応の、どこがまずいのかがわかって、対応を変える
- うまくいかなければ、その理由はあとからわかり、もっといい道がある
を経てのことが、ほとんどです。
自分にできることを全てやったら天に任せる
書き直しを依頼したからと言って、得られる結果が、自分にとって良いと感じるものになるかどうかがわからないのには、変わりがありません。
それでも、同じ時間・労力・お金を使うにあたり
- 何とかうまくいくことを願いながら、時間・労力・お金などを費やして、明らかにうまくいかないと思う内容のまま、前に進めるのか
- 時間や労力・お金を使い、できることの全てをやり、物事を前に進める
では、雲泥の差があると感じていました。
全ての準備が整うまでの間、助っ人から、提出をするにあたって、2つのことを絶対に守るよう、言われていました。
それを外したら、うまくいくものもうまくいかなくなる、とのことだったので、一つ一つの作業に神経をとがらせていた記憶があります。
できることの全てをやり、後は、第三者に委ねるだけという頃。
私は、再び、自分には何ができて、何が難しいのかを見定めるために、1ケ月という短期のパートとして働くことにしました。
仕事を通じて、自分の体との付き合い方が何となくつかめてきたので、少し休んで、今度は3ケ月働いてみようとしていた頃に、すっかり忘れていた通知が届きました。
封を開け、中身を見た時に、私は胸をなでおろし、書き直しの依頼は確かに功を奏したのだろうと思いました。
そして、ここに至るまでの、「面倒くさい・やりたくない・怖い・うまくいくはずがない」など一つ一つを振り返り、この件について、頑張ってよかったと思ったのです。
物事にはタイミングがある
今となっては、あの時、仕方なくでも、動いてよかったと思います。
なぜなら、物事にはタイミングがあり、もし、機会を逃して後から「やっぱりやりたい」と思っても、流れ的に無理だったからです。
もちろん、後からでも挽回できることもたくさんありますが、その場合は遠回りになりますし、負担も大きくなります。
今回、この記事を書くにあたり、自分の欲が何なのかを知り、適切に扱い、自分を満たすことは
- タイミングや運をつかむ
- 後悔、恨み、つらみを可能な限り、残さない
- 自信や存在価値の喪失を防ぐ
- 無駄な時間、労力、お金を使わない
- 必要なことに時間、労力、お金を使って、何等かの実りを得る
- 不要な対人トラブルを引き起こさない
- 自己否定・自信喪失のもとを作らない
ことなのだと改めて思ったのでした。
もし、あの時、何とかうまくいくことを願いながら、時間・労力・お金などを費やして、明らかにうまくいかないと思う内容のまま、物事を前に進めることを選んでいたとしたら。
どうせ私は・・なんて嘆きながら、周囲に対して恨みつらみを抱き続けることに、時間や労力などを費やした挙句、疲弊するパターンを、今もなお、ぐるぐる回り続けていたに違いありません。