サロンの立ち上げを諦める

自分を立て直せないのなら、人様に推拿を提供するのは無理だ。

推拿を学んでいた頃、師事していた先生の
「心身を整えない状態で、人の体に触れてはいけない」
という言葉を思い出し、サロンの立ち上げを諦めざるを得ないと思いました。

やめるとしたら今までやってきたことが無駄になる。

予期せぬ事態に正社員として勤めた会社を辞め、東京に出たことを悔やみました。

でも東京で得た友人や経験などを振り返ると、これらが私の人生にないことは考えられないのです。

私は、東京に居た頃は、青森に帰りたいと思っていた。
青森に帰ってきてからは、東京に戻りたいと言う。

自分の矛盾を持て余していました。

自分のことは自分で何とかするしかない

私は、医師たちに、
「自分で仕事を立ち上げる準備をしていたこと」を話したことはありません。

周囲にわかるような「形」になっていなかったからです。

確かに、私は立ち上げを目標に時間をかけ準備していた。

でも、立ち上げている訳ではない。

この先、必ず立ち上げるという確信も持てない。

受傷時は、立ち上げの過程として別な仕事についている。

私は、事故のせいでサロンを立ち上げられないのか。

本当にそうなのか。

自分のこれまでの選択の全てが間違っているように感じたし、
タイミングが悪すぎると思っていました。

私は、悩んでいたことを、家族や友人らに詳しく話したことがありません。

結局の所、自分のことは自分でやるしかないと思っていたからです。

皆が普段と変わらず接してくれ、ありがたかったです。

自分が納得する方法を探す

色々な問題が複雑に絡み合って、身動きが取れないと感じる中、
事故の後始末を納得して終わりたいと思うようになりました。

以前も書きましたが、納得せずに終えたら事故に遭ったことを引きずり、
何かやろうとする時に事故を理由にし、やらずに回避する自分が
ありありと目に浮かんだからです。

立ち上げることを辞めるにせよ、この先に進むにせよ納得したい。

でも、どうやったら「納得」が得られるのだろう。
そもそも、私にとって「納得」とは何だろう。

当時、言葉で表すことは出来ませんでしたが、
私の両胸の間には「納得の感覚」が確かにあったので、
それを追い求めることにしたのです。

専門の方の助けを求める

自分のことを自分で何とかするしかないとはいえ、
後始末をするにあたって私には何の知識もありません。

専門の方の助けが必要でした。

誰でも良かった訳ではありません。

当初、私の求める助っ人像が実在するのかわかりませんでしたが、
最終的に私はその人を探し出します。

被害者の立場を終えるにあたり、様々な手段があります。

納得を求めた私は、助っ人にやる必要のあることを教わったり、
わからないことを尋ねたりながら、1つ1つ自ら行動することを選びました。

つまり自分が動かなければ、何も始まらないのです。

自分がどうしたいのかがわからなくて困った

助っ人から言われて、困る言葉がありました。

「あなたは、どうしたいのですか?
あなたが、どうしたいのかが一番大事です。」


自分がどうしたいのかが、わからないと感じていました。
だからといって、何でもいい訳でもないのです。

例えるなら

ジミージミー

何食べたい?


ネ子ネ子

何でもいい・・


ジミージミー

じゃあ、焼き肉は?


ネ子ネ子

昨日食べたから焼肉じゃない方がいい!!


ジミージミー

(めんどくさ・・)
何でもいいって言ったよね??


ネ子ネ子

うーん、お鮨がいいかなあ。


といった感じでしょうか。

すぐに言葉に表せなかったけれど、私の中には確かに答えがあったのです。

転機を得る

自分がどうしたいのかわからないまま、何とか答えを捻りだした私に対し、
助っ人が緊急にやる必要のあることを提示してきました。

これは、複数の方に依頼する必要があることです。

「緊急」にやらなければ、この先の展開が望まない方へ向う可能性が非常に高い
というひっ迫した中で、周囲と波風を立てなくない一心だった私は、

りんりんりんりん

やりたくない。


と答えました。

やりたくないことを回避し、私の都合の良いように取り計らってもらって望む結果を与えてほしい。

このようなことを感覚的に思っていた私に助っ人は

「やりたくないなら、やらなければいい。
これは、あなたのことであり、私(助っ人)には関係がない。」


と、容赦のない回答を出してきました。

冷たいように感じる言葉ですが、
実際は、あなたのやりたいことを尊重するという意味です。

ガツンと頭を殴られたような衝撃を覚えた私は

りんりんりんりん

今までのやり方ではダメなんだ・・


と強く思いました。

これが、私の転機となります。

恥ずかしいと感じる自分に対峙する

やりたくないことを回避し、私の都合の良いように取り計らってもらう方法が
ない訳ではありません。

でも、これだと最終的に、自分が納得行く結果にはならないのです。

そのことをわかっていたから私は
「自分が動かなければ、何も始まらない」選択をしたのです。

けれど、いざ実行する段階で
やりたくないことを回避し、
私の都合の良いように取り計らってもらって
望んだ結果を与えてほしいだなんて、図々しい・・。

気づかぬうちにクレクレな考え方に陥る

実は
2・周囲の認めてほしい誰かや何かに自分を認めてもらえたと感じ満たされる方法
を選び、満たされたと感じることが足りない場合。

「助っ人に依頼したのだから、
助っ人が私のやりたくないことを回避し、
自分の都合の良いように取り計らってくれて当然。
望む結果が得られて当然。」

といういわゆる「クレクレ」な考え方に陥ることが当たり前に起きるのです。

これは、自分で自分をありのまま認め満たすことの積み重ねによって
「自分の思考と言動がおかしい」と自ら気づき、立て直すことができますが、
当時は知る由もありません。

あの時恥をかいておいてよかった

図々しい自分に気づいた時、自分のことをとても恥ずかしいと思いました。

でも今は、あの時、恥を直視しなければならなかったことを
本当に良かったと思っています。

なぜかというと「恥」をきっかけに私は、助っ人の存在があるものの、
主体的に動くことによって、何気ない日常の場面を転機としていく経験を、
積み重ねることになるからです。