画一的な教育を振り返って思うこと

セルフケアサロン・アイホージュの伊藤みつるです。

協調性と聞く時、ぼんやりと画一的な教育による自己犠牲を思い出す私は、高度成長期に生まれ、いわゆる管理教育を受けた世代の人間です。

昔「男は仕事、女は結婚出産育児」という、幸せのモデルがありました。

幸せのモデルに従って、生涯安泰に暮らすために、画一的な教育が施されていたのかもしれません。

でも、タッピングをして気づいたのは、

自らの意思を活かさずに、自己犠牲を積み重ねた先にあるのは、「一時的な盛り上がり後に、衰退の一途」ということ。

私は「バブルの最後、翌年から就職氷河期になる」時に短大を卒業。

大手と呼ばれる会社に就職しました。

同学年の中では、本来なら、メリットを享受しやすいであろう、大卒が割を食う形になっていました。

自分の意思ではなく、周囲に合わせて、足並みをそろえる、画一的な教育を受けたというのに、社会に出る頃には「自己責任」という流れになっていたのです。

画一的な教育の中でも「自分の意思を活かす」術を身につけた人はいたでしょう。
でも、その土台は、私にはありませんでした。

全くない訳ではないのですが、「生きるとはどういうことか」「生きる基本とは何か」を体験を通じて理解する機会がなく、いつも言葉に表せない、ぼんやりとした不安を抱えていました。

そのような中で、バブルの線引きを目の当たりにし「運に関係なく生きたい」という思いを強めたことが、後に今の仕事へとつながっていきます。

日々、目の前の出来事に対し、自他を尊重した上で、意思を活かす。

特別な何かをしなくとも、個々の、日々の積み重ねが「失われた〇年」を抜ける策になるのでは?と密かに思いながら、仕事をしています。