自分を変えたい女性のための自分を変えるたった一つの方法

幸せに生きることを目的に自分を変えるたった1つの方法

アイホージュの伊藤みつるです。

私は2009年に、女性専用のリラクゼーションサロンを立ち上ました。

それに伴い、変化の再現性はあると判断した上で、EFTタッピング(現・自律タッピング)の提供を開始しました。

EFTタッピングは提供者によって、目的も中身もさまざま。

アイホージュでは、あなたが自分らしく、幸せに生きることを目的に、「人からどう思われるか」から「自分がどうしたいのか」への軌道修正を行っています。

軌道修正をするために、あなたのネガティブな感情や思考を活かす(ありのまま認める)という、たった1つの方法を日常のあらゆる場面で応用します。

この方法を使って、軌道修正や変化に伴う、あなたの心理的な負担に対応しながら

  1. 自分を尊重する(自分を活かす)
  2. 自分と他者の違いを尊重する(自分と他者の違いを活かす)

という2つのルールに沿って必要な行動を取り、実りを得て、次へとつなげていきます。

これが、自分らしく幸せに生きるために、あなたが身に着ける必要のあることです。

つまり、自律最善タッピングとは

自分を変えたいと思う女性が

自分らしく幸せに生きることを目的に

たった一つの方法を、あらゆる場面で応用し、

「人からどう思われるか」から「自分がどうしたいのか」へと軌道修正をしながら

少しずつ自分を変えていく、実践的な取り組み

ということ。

今回の記事では、私がどのように自律最善タッピングへと辿り着いたのか、変化の過程を兼ねた自己紹介をします。

あなたに、自律最善タッピングが必要かどうか。

この記事が、1つの判断材料になるのではないかと思ったからです。

自分を変えるきっかけ

話は2007年、前年に起きた過失のない追突事故の後始末に、私が着手し始めた頃へとさかのぼります。

事故を機に、私はなかなか自分を立て直せないと感じていました。

この先、どうなるのか。

何をしたらいいのか。

何もわからない中で、納得を得て、事故の後始末を終えたいと思っていました。

私が納得を求めていたのには、理由があります。

過去を振り返った時に、この先で何かをやろうとする度に、事故に遭ったことを言い訳にし、やらずに逃げる自分の姿が思い浮かんだから。

言い訳をしてやらずに逃げるとは、別な表現で表すと、自分の意思を表に出さずに、周りとうまくやる方法を身に着けたために、意思を必要な行動へと結び付けられない ということ。

つまり私にとって、納得を得て終えたいとは

自分の意思を表に出さずに周りとうまくやる方法を身に着けている今の状態から、自分の意思を必要な行動へと結びつけて、納得を得たい

そのために「人からどう思われるか」から「自分がどうしたいのか」への軌道修正が必要だ

ということを意味していたのです。

これが、現状や自分を変えるために必要なこと、でした。

もちろん、当時は知る由もありません。

自分を変えるためには自分がどうしたいのかが大切というけれど

「自分がどうしたいのかが大切。あなたはどうしたいですか。」と聞かれたら、あなたはすぐに答えられるでしょうか。

私はわからないと感じるばかりで、答えられませんでした。

でも「納得を得て終えたい」は、「~したい」という私の意思であり、願いでもあります。

なのに、当時の私は、これを意思とも、願いとも認識していませんでした。

なぜなら

  • 意思とは、確固たる感覚はあるけれど、人の言動に合わせて変えるもの
  • 願いとは、楽しい、良いことが起きるといった高揚した感覚が伴うもの
  • 納得とは、自分にとって譲れない感覚が伴うもの

という具合に、私の中では「それぞれ別な感覚が伴う、別なこと」になっていたからです。

「納得したい」が「自分の願いを叶えること」だと気づいたのは、自律最善タッピングを通じて「言葉に含まれる、普段は表現されることのない意味」を言語化するようになってからでした。

自分がどうしたいのかがわかっても現状を変えることには結びつけられない

あの頃の私は、仮に意志や願いを自分の内側から引き出し、どうしたいのかがわかっても、現状を変えることへと結びつけることはできませんでした。

なぜなら私は

納得したいという意思があるのにも関わらず、自分がどうしたいのかがわからないと感じる

納得したいという意思があっても、どうすればいいのかわからないし、行動に結びつける術もないので、身動きがとれない

身動きが取れない状態から、抜ける術がない

術がないため悩み続け、堂々巡りをし、うまくいかないのは自分がダメだからと責める

という悪循環に陥っていて、1人でどうのこうのできる状態にはなかったからです。

誰かの助けが必要でした。

でも、私は何に困っているのか。

何から話せばいいのか。

何を話したらいいのか。

一から話そうとすると長くなるし、端折るにしてもどこから言えばいいのか。

誰かに相談する以前の段階でつまづいていたのでした。

自分を変えるためには人の助けが必要だと自覚するまでの話

まだ誰かの助けが必要だと自覚していなかった私が、現状を変えるために最初にやったことがあります。

それは、類似の事故事例に、自分の状況を当てはめること。

比較によって、何かしらのきっかけがつかめるのではないか。

そう期待していたのですが、実際はうまくいきませんでした。

ここで、人の事例に自分を当てはめたり、人と自分の事故を比較したりすること自体ちがうのだと気づきました。

この後、納得を得ようにも、事故に関する知識がまったくないという理由から、他者の助けが必要だと思うようになります。

助けは、誰でも良かった訳ではありません。

私が求める、納得を得られるかどうか。

これを基準に、存在しているかどうかもわからない、自分に合う人を探し始めました。

そうして私は「被害者も勉強をして、実りある終わりを」といった感じの謳い文句を掲げていた、助っ人に辿り着きます。

助っ人を得て今までのやり方ではダメだと気づく

助っ人から、最初の緊急指示が出た時のことです。

それを聞き「周りに迷惑をかける」と思った私は、助っ人に対し「やりたくない」と返答しました。

実はこの時、助っ人に対し、何も言わなくても、こちらの気持ちを汲んで、一切の面倒ごとを避けて、いい結果が得られるよう、都合よく配慮してほしいと、ぼんやり期待していたのでした。

ところが、助っ人からは「やりたくなければやらなければいい。それはあなたの問題で、私の問題じゃない。」と返ってきて、頭を殴られたような衝撃を受けました。

「今までのやり方ではダメなんだ。」

ものすごくバツの悪い思いをしましたが、これが「人からどう思われるか」から「自分がどうしたいのか」の軌道修正のきっかけとなりました。

とはいえ、そんなことはまだ知りません。

受けた衝撃の大きさに私は、納得を得るために、助っ人を選出したのだから、指示されたことは全部やると決めたのです。

これにより、私は、自分の意思を表に出さずに、周りとうまくやる方法を変えることになった訳です。

恐る恐る、この件に関係する方全員に電話をかけ、事情を話しました。

きっと、迷惑がられる、嫌がられる、怒られる。

そんな思いを抱いていたのですが、実際は、全員が快諾して下さったのです。

拍子抜けすると同時に、感謝の気持ちが湧いてきました。

事情を知った周りの方たちの協力があり、私は緊急事態を乗り切り、最初のハードルをクリアしたのでした。

もし、助っ人の言葉に傷つき、もっともらしい言い訳をして、必要なことをやらずに逃げたとしたら。

「こんなに酷い目にあったのだから、自分の思いをわかってもらえて当然。

いつか誰かが、自分の良いように何とかしてくれるはず。」

という根拠のない期待と「何ともならないんじゃないか」という不安を行き来しながら、タイムリミットを迎え「こんなはずじゃなかった」と今も悔やんでいたはず、です。

また、さんざん「周りに迷惑がかかる」「言っても嫌がられる」と思っていたけれど、実は私は断られることで自分を否定されたと感じて傷つかないよう、自らを守るために、伝える必要のあることを話す以前に諦めていただけ、でした。

これは、見方を変えると、適切に話をしていたら協力してくれる周りの人を「やってくれなかった」悪者に仕立て上げる行為でもあるのだと初めて気づいたのです。

医師の助けを得てゆるやかに変わり始める

助っ人と治療方針を見直した後に、治療で精神科の医師に話を聞いてもらう機会がありました。

「あなたはたくさんの悩みを抱えているのに、何一つ片付いていなくて、それが不安となっているのですね。」

それまで言い表せなかった自分の内側を、医師が適切な言葉で説明して下さったおかげで、まだ何も解決していないというのにすごく落ち着いたことを覚えています。

「そうだ、私はたくさん悩みを抱えていて、それが何も片付いていないから、不安なんだ。」

少し明かりが見えたような気がしました。

自分を理解するためには、思っていることや感じていることを適切な言葉に表し、自覚することが大切なのですが、まだそこまでの理解には至っていませんでした。

このまま順調に進むような気がしましたが、何度かカウンセリングを受けるうちに「あれもこれも言いたいけれどいつも話したりたい」という不満を覚えるようになります。

口をつぐみ、一人で堂々巡りをしていた頃に比べて、ずいぶん回復し、変化していたからこその不満です。

でも、回復の自覚も変化の手ごたえも全くありませんでした。

なぜなら、回復・変化という表現に対し「何の悩みもなくはつらつな自分になれる」といった感じの勝手なる思い込みがあったからです。

思い込みと治療を受けることで得られた変化が、私の中でかけ離れていたので、何も変わらないと不満を覚えていた訳ですが、これでは医師もカウンセラーもたまったものじゃありませんね。

回復や変化は、とても緩やかに生じるものであり、だからこそ何とか前に進めていたのだ。

ガンガン進む時は、それに対応できる力をすでに持っているか、あとちょっと踏ん張れば手が届く状態にある時だ。

と気づくのは、ずっと後のことです。

集めた情報が悩みの解決に結びつかず変化が得られないことが吉となる

回復の自覚も、変化の手ごたえもなく、ぼんやりとした不安や恐怖を抱えたまま、約1年に渡る心身の治療を終えた頃のことです。

治療に集中するという大義名分がなくなった私は、何も片付いていない現実に、直視せざるを得なくなりました。

私の悩み。

それは、なぜかわからないけれど集めた情報が、悩みの解決へと結びつかないということ。

そもそも、自分の意思を必要な行動へと結び付けられない状態にあるのだから、そう感じるのは当然な話。

ここで「集めた情報が悩みの解決へと結びつかない」と自覚したことで、1歩前進です。

でも、前進したとは、全然感じませんでした。

自分の違和感を認めることが欲しいものへとつながっていく

例えば、笑顔やポジティブにふるまえば良いといった類の情報は、私にとって、内面が置いてきぼりになる、表面的と感じるものでした。

感謝の気持ちを持てばうまくいくといった、私にとっては断片的で、解決に直結しないと感じる情報。

以前はドン底だったけれど、今はこんなに変わったという情報。

私は、ドン底と変化の「間」に何があるのかを知りたかったのですが、具体的に触れている記事は見つけられませんでした。

すごい経歴の持ち主の「私にもできたのだからあなたにもできる」という、立ち位置が違い過ぎると感じる情報。

「ありのまま認めたらいいんだよ」という、抽象的で具体的に何をしたらいいのか、わからないと感じる情報。

「問題解決」と書かれた、MBAを取った、スケールが違い過ぎると感じるの本。

自分がどうしたいのかが大切とあっても、そもそも、どうしたいのかがわからず、その時点でつまづきを覚える情報

願いがかなうことをイメージし、一切疑わず、何もせずに、ただ待っていれば実現するといった、どのような仕組みで、それが可能になるのか、根拠が見えない情報。

このような形で、願いが叶い、何かを手にすることは、本当に自分のためになるのか。

どんな意味があるのだろうか。

他にも、人とうまくやる100のテクニックのような、全てを覚えて実行するなんて無理と感じる内容。

など、私の中で生まれた、さまざまな違和感や疑問をまとめたものが、「人間に取扱説明書があるとしたら、それはどういう内容だろう」だったのです。

人間に取扱説明書があるとしたらどんな内容だろう

私は、根本的かつ現実的で、シンプルな解決方法を求めていました。

人間の取扱説明書といっても、特別な人だけが使える秘儀でもなければ、小難しい内容でもなく「私という、一般の一個人が生きていく上で、押さえる必要のある基本って何だろう」というもの。

さまざまな情報を目の前に、あれもこれも全てができるようにならなければ、現状が変えられないような気がして焦ると同時に、基本を押さえていたら、あれこれテクニックを集めなくてもいいのではないかと感じたのです。

でも、それは一体何なのだろう。
探そうにも、どうやったらいいのだろう。
結局答えは、見つからないまま。

と感じていたのですが、実は、これらの疑問を抱く数か月前から、私は自覚がないまま、答えを探す取り組みを開始していたのです。

納得が得られる事故の解決を求めていた私は、自ら探し当てた助っ人とのやり取りを土台に、2年以上に渡り、目の前の出来事に対応し続けました。

これが、答えを探す取り組みだったのです。

自覚なく人間の取扱説明書を実践しながら少しずつ自分を変える日々

助っ人からはよく「あなたはどうしたいのですか。あなたが、やりたいようにやればいい」と言われていました。

その度に私は、どうしたいのかわからないと感じたまま、何とか答えをひねり出し、助っ人とのやり取りを実際の行動へと結びつけていました。

これにより私は知らず知らずのうちに、現在、自律最善タッピングで使っている

  1. 自分を尊重する(自分を活かす)
  2. 自分と他者の違いを尊重する(自分と他者の違いを活かす)

という2つのルールに沿って必要な行動を取り、実りを得て、次へとつなげていたのです。

納得が得られる終わりへと向かって、この方法を使う度に

  • 必要な術
  • 経験を通じての学び
  • 結果や実り

などを得ていたのでした。

知識も、変化の自覚もないまま、経験だけが先行している状態でした。

生まれたばかりの子が立ち上がったら、それで終わりではないように、自分の意思を活かす場合も、次、次と小さく成長を重ねながら、対応のハードルが少しずつ上がっていきます。

これまで得てきたものを活かして次につなげることを、2年以上に渡り積み重ねた私は、ついに納得のいく終わりを迎えました。

変化の合図を受け取った日

被害者の立場を終える日の朝のこと。

「サロンを立ち上げたい」という思いが、私の中から自然と浮かんできました。

この思いが「自分の意思を活かした対応や経験、結果から得た学びの積み重ね」が私の中で満ちた合図だということをこの時は知る由もありません。

事故に遭ったのを機に、サロンの立ち上げを諦めていたので、いつも通り「無理だって」とかき消そうとした、その時

  • 納得して後始末を終えたい
  • サロンを立ち上げたい

という思いに伴う、私の内側の感覚が同じだと気づきました。

ひたすら納得の感覚を追いかけて、終わりを迎えたのなら、この感覚をどこまでも追いかけたらサロンは立ち上がるはず。

そう思い、やることに決めたのでした。

この日は、多幸感や高揚感に満ちていました。

でも、日が経つにつれて、これらは憂うつな気持ちへと変わっていったのです。

ネガティブな思いが生みだした自分を変えるための強い味方

納得の感覚を追いかけるということは、また、あの苦しい日々が始まるのか。

事故の後始末の時の同じように、よくわからないとかこれでいいのかと感じたまま、自分の意思を何とか引っ張りだして、怖いとかやりたくないとかびくびくしながら、行動していくのか。

これが、自分の意思を表に出さずに、周りとうまくやる方法を良かれと思いこみ、長年に渡り使い続けた私に起きていた問題であり、自律最善タッピングをお受け下さるクライアントさんに起きている問題でもあります。

この状態のまま、サロンを立ち上げるのは得策ではないと思いました。

なぜなら、自らの意思を活かそうとすると抵抗を覚えるので、思考や感情の面で消耗が激しくなる。

自らの意思に沿って行動することを負担に感じて、元のうまくいかないやり方へ戻ろうとする。

心理的な負担によって、アクセルとブレーキを同時に踏むようなことが起きるからです。

ただでさえ悲観的でビビりなのに、こんな状態が毎日が続くのには耐えられない。

そう思った私が、後に着手することになるのが、EFTタッピング(自律最善タッピング)。

目の前の出来事に対して生じる、ネガティブな思考や感情をありのまま認めることで、頭と心が納得した上で、自分の意思を活かす、だった訳です。

過去の経験を総動員してアイホージュを立ち上げる

うんうん話を聞いて下さった医師もカウンセラーも、いない。

「あなたはどうしたいのですか」と聞いてくれ、必要な指示を出して下さる助っ人ももういない。

これまでの経験を総動員し、1人でアイホージュを立ち上げるという、目的地に向かうためのお供として、自律最善タッピングを使うこととなったのです。

医師やカウンセラーの代わりに、ネガティブな感情や思いといった自分の訴えを言語化し、タッピングをしながら、ありのまま認めることを通じて、自分がうんうん聞く。

そこから答えを引き出して、何をする必要があるのかを考えて、行動する。

という日々の小さな積み重ねの先で、アイホージュは立ち上がりました。

自分を変えるたった一つの方法へと辿り着く

なぜサロンが立ち上がったのか。

言葉で説明をすることができなかった私は、自分の変化があまりに面白かったから、ありのまま認めるこの先に何があるのかを見てみたいと思いました。

その時

  • 納得して後始末を終えたい
  • サロンを立ち上げたい
  • ありのまま認めるこの先に何があるのかをみてみたい

という、3つの異なる思い(願い)に伴う感覚が同じだと気づきます。

この感覚をどこまでも追いかけていったら、この先に何があるのかを見られるはずだ。

そう思った私は、この先に辿り着くのが、10年以上も後になると知らないまま、

  • 一個人
  • 実践者
  • 提供者
  • 追究者

という4つの立場を無意識のうちに使い分けながら、自分やクライアントさんの変化の経験を言語化し、つなげて知識化をする作業をし続けました。

こうやって私は、呼び名こそ

  • 人間の取扱説明書
  • 自分を変えるたった1つの方法
  • 自分を活かして幸せに生きる方法
  • 自分と他者の違いを尊重する方法

といった具合に違うけれど、中身は同じ方法へと辿り着き、仮説・実践・検証を繰り返しながら、今も興味深い日々を送っています。

もしあなたが、自分を変えるためのたった一つの方法に興味が湧いたり、必要だと感じたりした場合は、まずは無料相談をご利用くださいませ。