
セルフケアサロン・アイホージュの伊藤みつるです。
いきなりですが、あなたは「人間の幸せ・本当の幸せとは何ですか?」と聞かれた時、どんなことを思い浮かべますか?
- いつも幸せを感じること
- 多幸感・安心感などに包まれること
- 好きなヒト・モノなどに囲まれて暮らすこと
など、いろいろありますね。
これが幸せだー!
と言い切れる方は、いらっしゃいますか?
改めて考えると、これぞ幸せというのは、言葉に表し難いなあと思いませんか?
今日は、自律最善タッピング(旧・EFTタッピング)でいう「人間の幸せ」「自分らしい幸せ」は「幸せを感じること」とは別モノですという内容です。
この記事では、
なぜ、アイホージュでは「幸せを感じること」を「幸せ」と呼ばないのか。
人間の幸せ・自分らしい幸せとは何なのか。
について、触れます。
本当の幸せとは何だろう
自律最善タッピングでは、「自分と他者との違いを尊重した上で、自分の意思(欲)を活かし続けること」を「自分らしい幸せ」と呼んでいます。
これを幸せと呼ぶに至った背景を、説明します。
幸せを感じることは本当に幸せなのか
小さい頃に抱いた疑問「生きる上で押さえる必要のある基本は何か」を、無自覚のうちに、タッピングを使って追い求めていた私は、セッション内容を言語化する過程で
「幸せを感じることは、本当に幸せなのか」
と思ったことがありました。
「何に対して幸せを感じるのか」
「何を幸せと呼んでいるのか」
は、人によって違います。
Aさんの幸せが、Bさんにとって、そうとは限らない。
別にそれは、皆違うので良いのですけれどね。
ある時、感じている幸福が、自己犠牲による対処がうまくいった時だったら、それは本当に幸せと呼べるのか?
という疑問に行きついたのです。
自己犠牲による対処で生じる幸福感
例えば、DVされた後に抱きしめられて愛していると言われて、幸福感を覚えた。
利用されていたり、大切に扱われないのに、本人は愛されていると感じる。
こういった場合、幸福を感じることを求め続けたら、心身に危険が及んだり、傷ついたりする訳です。
個人的な話なのですが、何らかの出来事に対処し、自分の中で「幸福感と名付けている感覚」が生じた時に、自身の一連の動きを言語化しながら観察すると「非常にまずい」時があるのです。
この場合は、自己犠牲の癖が顔を出しているなあと気づいて、軌道修正をします。
これは、セッションでもよくある話。
幸福感に限らず「うまくいきそうな感じ」「やった方が良い感じ」「直感」など、感覚を頼りに動くと、よろしくないケースがあるのです。
おかげで私は「幸福感と名付けている感覚」が生まれる時、一歩ひいて眺めたり、ありのまま認め、情報を引き出したりする癖がつきました。
自己犠牲をやめたいという時は、感覚をありのまま認めることが、きっかけとなり得るのです。
このような背景があって「自分の中で幸福感が生じること」を幸せと呼ぶことはあっても、一概にそうは言えないと判断したのでした。
これが分かった後。
じゃあ、何をもって「幸せ」といえるのだろう。
そう思うようになったのです。
自分らしい幸せを定義した背景
人は抱いた疑問の答えを探します。
私が「自分と他者との違いを尊重した上で、自分の意思(欲)を活かし続けること」を、自分らしい幸せと定義した理由を(かなり端折って)説明しましょう。
タッピングの取り組みを通じて、「人生とは、生きるとは、突き詰めると、自分の意志(欲)を扱うことの連続・積み重ね」と気づいた後。
「自分」とは何だろうという疑問が出てきたことがありました。
この話は長いので、今回は省略しますが、取り組んだ内容を言語化・知識化しながら出した結論が
「自分とは何も選べない存在であり、唯一選べるのが、意思(欲)の扱い方だ」
というものだったのです。
自分の幸せは自分で選べるとは?
意思の扱い方って
- 自分を活かす
- 自己犠牲
のどちらかになる。
自分と他者の違いを尊重した上で、意思を活かすことを選択し、必要な行動を取り
- 経験
- 術
- 自信
といったものを積み上げると、自分や周囲の安全を守りつつ、できることが増えていきます。
そうすると、渦中は苦しかったり、辛かったりすることがあっても、そこを超えると、面白さや興味深さ、嬉しさ、楽しさ、幸福感、手ごたえといったものが、自分の中から生まれます。
必要な手を打った後、欲しいと思った何かが手に入らない場合は、「別な、より良い何かがあって、そのうちにわかる」ので、執着する気持ちを存分に認めたらいいしなあ。
ということで、ここから
という内容に辿り着いたのでした。
これだと、意思の中身は皆違っていても、幸せの定義は皆共通になります。
また、
自分の意志を活かすことを選ぶ=自分の幸せは自分で選べる
ということにもなる訳です。
自分らしい幸せを選んでも幸福感が湧かない理由
余談ですが、ネガティブな感情をありのまま認め、掘り下げ、必要な情報や原動力を引き出した後に、自分の意思を活かす場面では「幸福感と名付けている感覚」は湧きません。
セッションで「この感覚はゴーサインだから覚えておいてください」という話をした時。
クライアントさんから「全然そんな感じしないですね」と返ってきたことがあります。
自己犠牲の積み重ねによる幸福感に慣れていると、このような感じになるのは自然なこと。
個人的な感覚ですが「え、これが?」と思う位に落ち着いていたり、フラットな感じがしますね。
まだ対応する何かが残っている時は、落ち着かないこともあります。
こういう時は、落ち着かない感覚を拾ってタッピングするのを繰り返すうちに、腹が据わってきます。
そうなったら、ゴーサイン!
といった具合に、感覚は適切に扱うことで、頼りになるもの・自分らしい幸せへと導いてくれるもの となるのです。