自己犠牲の何がまずいのか

セルフケアサロン・アイホージュの伊藤みつるです。

自己犠牲とは、「自分(の意志)がどうしたいのか」ではなく
「周りからどう思われるか」
「何が正解なのか」
「あなたのためを思って」
などを考え、行動することを指しますが、これの何がマズイのか。

それは、自分(や周囲)が本当に欲しいものを、自分(や周囲)から取り上げていることに、自分で気づけない ということ。

自己犠牲をやめればうまくいく・・訳じゃない

世の中には、いろいろな情報が溢れています。

「自己犠牲をやめれば、うまくいく」
「自分がどうしたいのか大切」などという内容もあれば
「人に配慮し、人の役に立つ人間になろう」といったのもあって

伊藤伊藤

おい、どっちだよ??

と混乱したことがあるのは、私だけでしょうか。

「自己犠牲をやめれば、うまくいく」というのは、確かに合っています。

でも、正直申し上げると、やめるだけでは、うまくいきませんし、簡単な話ではありません。

なぜかというと、自己犠牲が生じている状態では、欲の扱い方が

先天的な「子供のありのまま」+後天的な「自己犠牲」のコンビ

になっているからです。

「子供のありのまま」と「自己犠牲」のコンビ

以前、子供の自由と大人の自由は違う でも触れましたが、先天的な「子供のありのまま」とは、

ありのままの自分で、周りに自分を認めてもらったり、何かを与えてもらったり、満たしてもらったりして当然と自分が感じること。

例えば

  • 私がここにいるだけで、周りは、私の一挙手一投足を喜んで当然
  • 私がここにいるだけで、私が何が欲しいかをわからなくても、周りがそれをわかって、与えてくれて当然
  • 私がここにいるだけで、周りが常に注目してくれて当然

と自分が感じること。

後天的な「自己犠牲」とは、自分を犠牲にし、表面上は相手に従うか、相手を従わせたら、周りは自分を認め、何かを与えてくれ、満たしてくれるはずだと自分が感じること。

例えば

  • 自己犠牲をしたのだから、周りは、私の一挙手一投足を喜んで当然
  • 自己犠牲をしたのだから、私が何が欲しいかをわからなくても、周りがそれをわかって、与えてくれて当然
  • 自己犠牲をしたのだから、周りが常に注目してくれて当然

比較するとわかりやすいのですが

  • 内面は、子供のまま
  • 外側は、大人のように振る舞う

というのが、自己犠牲という状態です。

  • 子供のありのまま
  • 自己犠牲

どちらにも共通しているのが、自分を満たせるかどうかは、いつだって周囲(ヒト・モノ・コト)の承認次第。

無意識の思い込み・前提・期待が生じた状態で、周りと接することになります。

子供のうちは何とかなっても、大きくなるにつれて、周囲からの承認が得られにくくなるので、期待外れの展開が増えます。

自分の思い描くような反応しない周囲に対し、承認が得られない(認めてもらえない)と感じ、猛烈な怒りを覚えて、爆発させるか、傷ついた、わかってもらえない、などと落ち込んだりすることも、少なくないはず。

仮に「自己犠牲」をやめたところで、残るは「子供のありのまま」の欲の扱い方だけ・・。

うまくいくはずがありません。

自己犠牲をやめたらうまくいくの真意

前述しましたが

  • 「子供のありのまま」
  • 「子供のありのまま」+「自己犠牲」

どちらの対処も、「周囲から承認を得られたと自分が感じるために、自分の思い描く反応を、常に周囲がすることを求める」ことになります。

これにより、自分(や周囲)が本当に欲しいものを与えられなくなり、結果的に、自分(や周囲)から取り上げることになるのですが、それには気づけません。

だって、自ら考え、意思に沿って行動し、ヒト・モノ・コトなどを得る方法を、身に着ける機会を失ったまま大人になったのですから。

自分(や周囲)が本当に欲しいものを、自分(や周囲)に与えようとするならば、「自己犠牲をやめる・なくす」のではなく、「自己犠牲をしている自分の動きを自分がありのまま認め、この方法ではうまくいかないと自ら気づくこと」が大切です。

これを、ここでは軌道修正と言います。

軌道修正をしつつ、自分の思い、感じ、考えることを自分が認識し、何が欲しいのか、どうする必要があるのか、周囲に何と伝えたらいいのかなど、一つ一つ考えて、行動に結び付け、望むものへと自ら近づいていくことも大事です。

そのためには、日々、目の前の出来事(悩み)に対応しながら、メタ認知能力を自らの内に育み「大人のありのまま」の欲の扱い方を身に着ける必要があるのです。

ヒトリゴト

人間は、もともと、一人ひとりの力を活かして発展するようにできている。

そのために「自分と他者の違いを尊重した上で、自ら欲を適切に扱う」

本来なら、欲の扱い方は「子供のありのまま」から「大人のありのまま」へと移行するのが、自然で最善だったのだろう。

13年間に渡り、「人生は、生きるとは突き詰めると、自分の欲を扱うことの連続・積み重ねで、そのために人は思考し、行動する」という前提のもと、出来事(悩み)に対する、自分の思考や感情、言動などを自分がありのまま認める(そのまま認知する)という、たった一つの方法をあらゆる場面で応用し、言語化・知識化してきた、一般の一個人である私・伊藤のヒトリゴトです。