自分で決めるのは面倒だから正解が欲しいと思っていた頃のこと【1】

セルフケアサロン・アイホージュの伊藤みつるです。

この話は、前回からの続きです。

当時、自己犠牲を積み重ねていた私は、技術向上のため、主体的に行動し、コツコツ頑張っていたつもりでした。

でも、充実感も、手ごたえも感じられない。

そんな中で、「厳しい修行をすれば(師匠に認められる自分になれば)自信が持てるはず(自分を満たせる)」という考えに至りました。

でも、全然、気乗りがしないのです。

厳しい修行とは具体的にどういうこと?

今なら、気乗りしないのは、当然だと思います。

なぜなら、当時の私がぼんやりとイメージしていた「厳しい修行」とは、例えるなら
ブラック企業で、トップ(師匠)に従い、無理難題に応えながら、連日連夜働き続ける、ようなもの、だったから。

このやり方は、トップの言うことに従えば間違いないという、洗脳・思考停止状態に陥ります。

長期的には、自分を無力にしたり、傷つけたりすることにつながるため、注意が必要です。

かつて、私は、このやり方に陥りそうになったことがありました。

でも、その時は、師匠にあたる先生が、そうならないよう配慮して下さり、難を逃れたのです。

そして、この時も私は、イメージしたような、厳しい修行をすることはありませんでした。

代わりに、とある機会によって、半ば強制的に「周囲から認められたと感じる上に、満たされる状態」から離れ、日々の出来事に対し、主体的に思考し、行動するよう、促されていたのでした。

当時は全然気づいていませんでしたが、自己犠牲を積み重ねている状態で「主体的に自分で決めようとする」場合は、段階があるのです。

自分で決めるのには段階がある

これまでも、自分で物事を決めてきてはいました。

でも、それは、「周囲から認められている(と感じる)」。

または、「周囲から認められた上に、満たされる(と感じる)」安定した状態で、自分で決めるなんですよね。

それでも、自分で決めるのは、面倒なこと。

なのに、この時は、周囲の承認がない(と感じる)状態で、自分にとって重要な判断を下さなくてはならなったのでした。

以前もこの体験をしてはいるのですが、かつてよりも、ハードルが上がっていました。

今なら、自分の思考や感情をありのまま認めたらいいとわかるのですが、当時はその術を知りません。

なので、ものすごく不安でしたし、辛かったです。

誰か正解をくれ、と思っていました。

正解がない中で迷う

主体的に思考する時、正解はない。

自分がどうしたいのかが大切と言います。

でも、私は、なかなか答えが出せなくて、1カ月近くウダウダしていました。

自分で決めるのは、回数を積み重ねて慣れることが必要です。

どうすることが、ベストなのか。

考えてもわからないし、これでいいのか自信もないと感じる、頭も心も合致しない中、私は重要な決断を下しました。

そして、この後、自分の選択の全てが間違ったかのように感じる状態に陥ります。

自己犠牲あるあるですね。

自分で決めることが大事

でも、どんな内容であっても「自分がどうするのかを決める」のは大事。

これは、自律最善タッピング(旧・EFTタッピング)に取り組み続けて、実感していることです。

自律最善という名は「自分の思考や感情をありのまま認める、自律が、最善へとつながる」という意味。

リアルタイムではうまくいかないと感じていても、後から、その意味がわかるのです。

当時の私は、不安定な中、手探りで、主体的に思考し、行動することを試みる、新しい段階の始まりにいて、これが後に、

  • 事故の後始末
  • 自分で自分の思考や感情をありのまま認める、メタ認知能力を高める、EFTタッピングとの出会い
  • アイホージュの立ち上げ

などへとつながっていきます。

そして、この時の

考えてもわからないし、これでいいのか自信もないと感じる、頭も心も合致しない中、私は重要な決断を下し、自分の選択の全てが間違ったかのように感じる経験

は、「生きる上で押さえる基本」「頭と心が合致する方法」を求めることへと私を誘ってくれました。

この状態から、頭と心が納得した上で軌道修正をするという、当時の私が求めていた具体的な内容は、探しても見つけられなかったので、

自分の疑問が活きた=自分らしさ

とも言えるでしょう。

でも、リアルタイムでは「次、次と起こる出来事に、気持ちがついていかない」「お先真っ暗」そう思っていたのです。

次回に続きます。